2011年06月09日
宮ノ越宿
宮ノ越宿
「木曽路はすべて山の中である」
有名な島崎藤村の「夜明け前」の序文です。
1 写真は鳥居峠からみた薮原宿です。木曽は山、また山という感じです。
中山道69次のうち県内にあった宿は26宿で、木曽には11宿がありました。下諏訪から塩尻・洗馬・本山を過ぎると、国道の右側に「これより南木曽路」の石碑が建っています。
贄(にえ)川(かわ)関所があり、無事通れると贄川宿・奈良井宿と続きます。奈良井を過ぎ、鳥居峠を越すと薮原宿です。川の流れは今までの奈良井川と逆(分水嶺)になり、太平洋にそそぐ木曽川が流れています。山に囲まれ川沿いの少しばかり平な所に宿場ができました。贄川・奈良井・薮原宿は1550年頃の天文年間に置かれたそうです。
2 薮原宿の次が「宮ノ越」宿です。宮ノ越宿は次の福島宿と薮原宿が約15㎞あるため、間の宿として1601年に置かれた宿です。
宮ノ越宿は江戸と京都のちょうど中間に位置する宿で、歌川広重・英泉の「木曽海道六十九次」では37次として描かれました。「宮ノ越」は「28次 長久保」「31次 洗馬」とともに三役物(人気の高い浮世絵)として数えられ、広重の代表作です。

満月の夜、小綺麗な装いの家族は祭りの帰りであろうか。長女は喧噪の残る芳香を指差し、次女は父親の背中で寝入っている。木曽義仲の育った地であるこの村では義仲の牛の角にたいまつをつけ平家追討のため戦った倶利伽羅峠の戦いを演出した「らっぽしょう」という祭りを見た帰りではないかといわれている。背景を線描でなく色面で描き、山中の霧が巧に表現されている。 (一部 望月義也氏編 「木曽街道六拾九次」 合同出版より引用)
3 昭和30年代前半の宮ノ越宿です。中央西線の上の段丘上から見下ろした写真です。

家々は中山道をはさんで両側に連なっています。どの家も屋根の上に桧の板を敷き、上に石を乗せて置 き、強い風から板がふきとばされないようにした「石置き屋根」です。
宮ノ越宿は天保14年の人口は585任、総戸数137軒、本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠21軒で あった。年寄り役として藤屋拾兵衛・吉野屋茂左衛門・隣屋仁右衛門の三軒の大旅籠の当主が代々務めて きた。
石置き屋根だった頃の思い出として昭和34年の伊勢湾台風の翌朝、起きてきて見るとお勝手の天井か ら青空がのぞいていた話を以前のブログに書いた。多くの家が屋根を飛ばされたので、木曽谷に家々はこ の後、トタン葺きの屋根に代わっていった。それがなぜか赤色なんです。電車から見た人がどうして木曽 谷に入ると屋根の色が赤なのでしょう?と疑問に思うようです。
なぜ? 昔、何かの本にその理由が書かれていたことだけは覚えていますが、その理由はもう忘れてし まいました。木曽の山々はいま新緑がまぶしいくらい。その新緑に赤い屋根はとても似合うんです。
4 昭和50年頃の宮ノ越宿の写真です。
用水が宿場の中を流れています。木曽11宿のうち、用水が流れているのは須原宿と宮ノ越宿だけです。

昭和30年代はこの用水は道の真ん中を流れ、いま水が流れているあたりには松並木がありました。
「中山道信濃二六宿」(信濃毎日新聞社)と「街道の日本史26 伊那・木曽と塩の道」(吉川弘文館) にはいずれもこの用水は「木曽川から引かれていた」と簡単に記述されているが、明かな間違いです。前 者は小松芳郎さん(現松本市文書館館長)、後者は高木俊輔さん(現立正大学文学部教授)が記述してい ます。
木曽川はこの用水の西側100㍍の所を流れているが、木曽川の方が低いところ流れています。木曽川 を遡ると巴淵(木曽義仲の愛妻・巴がここでその黒髪を洗ったと言い伝えられている)あたりでは谷が より深くなり、山も険しく用水を引くことは無理です。
この用水は東側の南宮神社裏の山をぐるっと回った野上集落を流れている野上川から取水しているのが 正しいです。長くなりました。なぜ、宮ノ越宿に用水が必要だったかは、別の機会に書きたいと思いま す。
この写真の左側の家が「隣屋」です。旅籠は昭和20年で廃業しています。この写真では車が止まり軒 先に洋服などがぶら下がっています。広い玄関と前の一部屋を辰野や名古屋の商店に貸していたのです。
5 明治16年に建築した「隣屋」です。

「となりや」なんてめずらしい屋号です。宮ノ越宿には藤屋・吉 野屋・桔梗屋・信濃屋・越後屋・柏屋・吉丸屋・大丸屋・海老屋・若松屋・河内屋などの屋号があり、こ れらは別の宿場にもありそうな屋号です。「宮ノ越宿昔話」(長野日報社)によると、「呼び名が訛って 変化したもの」に位置づけられています。格式や職業・出身地・縁起・血筋・植物名等から屋号はつけら れる事が多いようですが、まだ屋号がついていなかった江戸時代のはじめ、寄り合いかなにかのとき「お となりさん」とよばれたのが始まりで、そのうち「となりやさん」と呼ばれ、「隣屋」という屋号になっ たのではないかと思われます。
めずらしい屋号なので、インターネットも「となりや」と打ち込むと私のブログがすぐでてきて、知人 にしらせるには便利です。
親子三人展にあわせ、宮ノ越宿の資料や関係した本も読めるようなコーナーも設置したいと思っていま す。
「木曽路はすべて山の中である」
有名な島崎藤村の「夜明け前」の序文です。
1 写真は鳥居峠からみた薮原宿です。木曽は山、また山という感じです。

中山道69次のうち県内にあった宿は26宿で、木曽には11宿がありました。下諏訪から塩尻・洗馬・本山を過ぎると、国道の右側に「これより南木曽路」の石碑が建っています。
贄(にえ)川(かわ)関所があり、無事通れると贄川宿・奈良井宿と続きます。奈良井を過ぎ、鳥居峠を越すと薮原宿です。川の流れは今までの奈良井川と逆(分水嶺)になり、太平洋にそそぐ木曽川が流れています。山に囲まれ川沿いの少しばかり平な所に宿場ができました。贄川・奈良井・薮原宿は1550年頃の天文年間に置かれたそうです。
2 薮原宿の次が「宮ノ越」宿です。宮ノ越宿は次の福島宿と薮原宿が約15㎞あるため、間の宿として1601年に置かれた宿です。
宮ノ越宿は江戸と京都のちょうど中間に位置する宿で、歌川広重・英泉の「木曽海道六十九次」では37次として描かれました。「宮ノ越」は「28次 長久保」「31次 洗馬」とともに三役物(人気の高い浮世絵)として数えられ、広重の代表作です。

満月の夜、小綺麗な装いの家族は祭りの帰りであろうか。長女は喧噪の残る芳香を指差し、次女は父親の背中で寝入っている。木曽義仲の育った地であるこの村では義仲の牛の角にたいまつをつけ平家追討のため戦った倶利伽羅峠の戦いを演出した「らっぽしょう」という祭りを見た帰りではないかといわれている。背景を線描でなく色面で描き、山中の霧が巧に表現されている。 (一部 望月義也氏編 「木曽街道六拾九次」 合同出版より引用)
3 昭和30年代前半の宮ノ越宿です。中央西線の上の段丘上から見下ろした写真です。

家々は中山道をはさんで両側に連なっています。どの家も屋根の上に桧の板を敷き、上に石を乗せて置 き、強い風から板がふきとばされないようにした「石置き屋根」です。
宮ノ越宿は天保14年の人口は585任、総戸数137軒、本陣1、脇本陣1、問屋1、旅籠21軒で あった。年寄り役として藤屋拾兵衛・吉野屋茂左衛門・隣屋仁右衛門の三軒の大旅籠の当主が代々務めて きた。
石置き屋根だった頃の思い出として昭和34年の伊勢湾台風の翌朝、起きてきて見るとお勝手の天井か ら青空がのぞいていた話を以前のブログに書いた。多くの家が屋根を飛ばされたので、木曽谷に家々はこ の後、トタン葺きの屋根に代わっていった。それがなぜか赤色なんです。電車から見た人がどうして木曽 谷に入ると屋根の色が赤なのでしょう?と疑問に思うようです。
なぜ? 昔、何かの本にその理由が書かれていたことだけは覚えていますが、その理由はもう忘れてし まいました。木曽の山々はいま新緑がまぶしいくらい。その新緑に赤い屋根はとても似合うんです。
4 昭和50年頃の宮ノ越宿の写真です。
用水が宿場の中を流れています。木曽11宿のうち、用水が流れているのは須原宿と宮ノ越宿だけです。

昭和30年代はこの用水は道の真ん中を流れ、いま水が流れているあたりには松並木がありました。
「中山道信濃二六宿」(信濃毎日新聞社)と「街道の日本史26 伊那・木曽と塩の道」(吉川弘文館) にはいずれもこの用水は「木曽川から引かれていた」と簡単に記述されているが、明かな間違いです。前 者は小松芳郎さん(現松本市文書館館長)、後者は高木俊輔さん(現立正大学文学部教授)が記述してい ます。
木曽川はこの用水の西側100㍍の所を流れているが、木曽川の方が低いところ流れています。木曽川 を遡ると巴淵(木曽義仲の愛妻・巴がここでその黒髪を洗ったと言い伝えられている)あたりでは谷が より深くなり、山も険しく用水を引くことは無理です。
この用水は東側の南宮神社裏の山をぐるっと回った野上集落を流れている野上川から取水しているのが 正しいです。長くなりました。なぜ、宮ノ越宿に用水が必要だったかは、別の機会に書きたいと思いま す。
この写真の左側の家が「隣屋」です。旅籠は昭和20年で廃業しています。この写真では車が止まり軒 先に洋服などがぶら下がっています。広い玄関と前の一部屋を辰野や名古屋の商店に貸していたのです。
5 明治16年に建築した「隣屋」です。

「となりや」なんてめずらしい屋号です。宮ノ越宿には藤屋・吉 野屋・桔梗屋・信濃屋・越後屋・柏屋・吉丸屋・大丸屋・海老屋・若松屋・河内屋などの屋号があり、こ れらは別の宿場にもありそうな屋号です。「宮ノ越宿昔話」(長野日報社)によると、「呼び名が訛って 変化したもの」に位置づけられています。格式や職業・出身地・縁起・血筋・植物名等から屋号はつけら れる事が多いようですが、まだ屋号がついていなかった江戸時代のはじめ、寄り合いかなにかのとき「お となりさん」とよばれたのが始まりで、そのうち「となりやさん」と呼ばれ、「隣屋」という屋号になっ たのではないかと思われます。
めずらしい屋号なので、インターネットも「となりや」と打ち込むと私のブログがすぐでてきて、知人 にしらせるには便利です。
親子三人展にあわせ、宮ノ越宿の資料や関係した本も読めるようなコーナーも設置したいと思っていま す。
Posted by 画廊となりや at 12:04│Comments(0)