2012年07月10日

今、宮ノ越宿で (1)

今、宮ノ越宿で(1)

 中山道69次、江戸・京都の中間点に位置する宮ノ越宿。明治16年の宮ノ越大火で宿の大半が焼失したものの、以後復興し昭和30年代までは道の真ん中に用水が流れ、東側には松並木が残されていました。高度経済成長期に入ると、国道19号の拡幅工事に伴い松並木は切られ、用水はその松並木跡に移されました。(1枚目写真)
今、宮ノ越宿で (1)






 






昭和40年代 用水が移された後の宮ノ越宿
 その後、通りは車の往来が激しくなり、勤め人の多かった宮ノ越宿の家々はどんどん取り壊され新しい住宅へと建て替えられていきました。
明治16年の大火で焼失した問屋は敷地の奥まった所に再建されました。小学生だった私は本陣や旅籠だった家々とはずいぶん違う変わった造りの家だなと思っていました。近代化住宅への建て替えが進む中、問屋は曳き家工法で建物をそっくり道路に面した前方に移設しました。距離にしたら30メートルぐらいは移したように思います。
最近、移設後の問屋の写真を見つけました。変わった造りだなと思ったのは他の家と違う屋根の形でした。切妻の梁出し(出桁作り)の家々に対し、問屋は寄棟造りで屋根の2か所にはとんがり帽子のような飾りがつけられていました。

今、宮ノ越宿で (1)











 明治16年頃に建てたとすると当時は松本の開智学校や佐久の中込学校などの洋風建築が取り入れられていた頃。
 当時の問屋の当主はしゃれていて、この洋風?建築を取り入れた建物を建てたのではないかと推測しています。
 しかし、この建物は10年ほど前、建て替えられ、内部を確かめるすべはありません。



 この問屋の真ん前にあるとなりやを再生してから、3年目。木曽11宿で本陣の建物が現存するのは宮ノ越宿だけ。(といっても明治16年の建築で築128年になります)
 この本陣の手前の空き地にみんなが憩える場所を造ろうと動き出したグループがいます。
宿を見下ろせる高台に熊ツリーハウスなどを造り「美しき里わんぱく村」をつくってきた巾さんを中心としたグループです。
 食事する場・お茶を飲む場・憩える場など何もない宮ノ越。この村にここで育つ子どもたちに郷土を誇れる心を育てようと活動を始めたグループです。
 本陣前の空き地に用水の水を流し入れた池や石を並べた公園を造ろうとしています。
今、宮ノ越宿で (1)




 








 手前が国道。右手コンクリートの蓋をしてあるのが用水で直角に折れ右手へ流れて行っています。緑の木立の奥が本陣です。
重機のある場所を整備しています。


今、宮ノ越宿で (1)
 

















                    







用水から水を取り入れようとU字溝を設置。
   
                      今、宮ノ越宿で (1)













大きな岩や石が配置され、つつじなどの低木が植えられ、池のおおよその形ができてきました。

 
池の水を用水へ戻す角付近で、この日は4人のメンバーが休憩しながら工事の打ち合せをしていました。
今、宮ノ越宿で (1)














 近くの住民は毎日工事現場を眺め込んだり、メンバーに話しかけたりしています。住民の関心の高さもうかがえます。中山道を歩く人たちが増える夏休み。それまでに工事は終わっていればきっとここで一休みしていくことになるのでしょう。
 この活動が行政を刺激して本陣の再生につながればと期待するのは私だけではないと思います


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Posted by 画廊となりや at 10:41│Comments(0)木曽

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