2010年05月02日
解体工事31日目・更地になる
解体工事も1ヶ月。いままで、窓・戸・壁・屋根・2階の柱・大引き・根太・長押・床・鴨居・框・通し柱等の順で解体されてきた様子をお知らせしてきました。そして前回、囲炉裏やこたつの石、柱の下の礎石、コンクリートのたたき、風呂棟が片づけられていく様子をお知らせしました。 31日目。きれいにほぼ更地になってしまいました。

この家の裏側には直線で100mほどのところに木曽川が流れています。江戸時代に五街道の一つとして整備された中山道。両隣の福島宿と薮原宿は当初から設けられたのに対し、宮ノ越宿は15㎞ある間の合宿として1650年頃設けられました。となりやもこの頃造られました。初代の当主、原二右衛門は1684年(貞享元年)6月1日(太陰暦の)に亡くなっています。
そんなことはどうでもいいのですが、宿場ができるよりもっともっと大昔、木曽川は谷の東側を流れていた可能性があります。あるいは時々の大雨で土砂が流され氾濫原としていまの宿場あたりを覆ったのでしょう。地質調査の結果、砂礫層が地下1.5mほどあり、地盤が弱いことが分かりました。
地盤が弱いということは強化する必要があるということです。結果として柱状改良という工法を採ることになりました。大型重機が入ります。このため、解体工事は全部ばらして撤去して、基礎をつくってから古材を利用して再生するという工法をとらざるを得なかったということです。
こうしておおがかりな工事になったわけです。次回は地盤強化のための柱状改良工事についてお知らせします。


この家の裏側には直線で100mほどのところに木曽川が流れています。江戸時代に五街道の一つとして整備された中山道。両隣の福島宿と薮原宿は当初から設けられたのに対し、宮ノ越宿は15㎞ある間の合宿として1650年頃設けられました。となりやもこの頃造られました。初代の当主、原二右衛門は1684年(貞享元年)6月1日(太陰暦の)に亡くなっています。
そんなことはどうでもいいのですが、宿場ができるよりもっともっと大昔、木曽川は谷の東側を流れていた可能性があります。あるいは時々の大雨で土砂が流され氾濫原としていまの宿場あたりを覆ったのでしょう。地質調査の結果、砂礫層が地下1.5mほどあり、地盤が弱いことが分かりました。
地盤が弱いということは強化する必要があるということです。結果として柱状改良という工法を採ることになりました。大型重機が入ります。このため、解体工事は全部ばらして撤去して、基礎をつくってから古材を利用して再生するという工法をとらざるを得なかったということです。

こうしておおがかりな工事になったわけです。次回は地盤強化のための柱状改良工事についてお知らせします。
Posted by 画廊となりや at 05:44│Comments(0)
│古民家再生