2011年03月15日
書 /屏風 扁額
九州へ車の一人旅で行ってきました。このブログも35日もご無沙汰してしまいました。そろそろ書こうかなと思っていましたら、3月11日のあの大地震・津波。ブログを書く前に、津波に飲み込まれ命を亡くされた多くの皆さんのご冥福をお祈りいたします。そして、家族を失ったり、家を失ったりの皆さまにお見舞い申し上げます。さらに、福島原発の放射能漏れ事故が心配差されます。関係の方の英知と努力でこれ以上の被害がでず、なんとか終息することを願っています。
久しぶりの書き込みはとなりやにのこされている書、今日は屏風と扁額について書きます。扁額というのは横に細長い額のことをいいます。
山岡鐵舟書『亀鶴年寿等』
山岡鐵舟は天保7年(1836)江戸に生まれ、勝海舟、西郷隆盛等とともに江戸城明け渡しに尽力し、明治期になってからは静岡県権参議、茨城県知事・伊万里県知事・宮内大書記官らを歴任した人物である。
文武両道に長け、槍剣術を身につけ、無刀流と称し春風館を設立し、後には講武所剣術心得となった。書も学び、一楽斎と号した。
木曽へは2度訪れている。最初は明治7・8年頃、上松宿旧脇本陣・問屋の原鉄太郎さんに手紙を送り、木曽を訪れたことがわかっている。
2度目は、明治13年6月、明治天皇が木曽街道御通輩の際、先発官として宮ノ越宿を通っている。明治天皇は宮ノ越宿本陣でご休息をなさっている。
その際、鐵舟はあちこちに書を書き残している。宮ノ越徳音寺(木曽義仲菩提寺)には鐵舟揮毫の『潔之壺氷守』が残されている。
天皇が本陣でご休息の間、鐵舟は宿役人を勤めていた「となりや」で休息。この時に『亀鶴年寿等』を揮毫したものと思われる。
この3年後の明治16年8月23日、宮ノ越宿は宿の中央よりやや南側から出火、90戸の家が燃えてしまう大火事に見舞われた。問屋はじめ宿役人をしていた4軒の旅籠も燃えてしまった。ただ、本陣は
通りより奥まったところに建てられていたため難を逃れた。木曽11宿の中で江戸時代に建てられた本陣が現存するのは宮ノ越宿だけである。
この火事でとなりやも消失してしまった。しかし、家人は大事な位牌や鐵舟の書は運びだしたものと思われる。貞享元年(1684)年から後のすべての位牌が現存していることから推測される。
火事から3ヶ月後の11月末からとなりやの再建工事は始まったことがわかってきた。

山岡鐵舟揮毫の『 等 寿 年 鶴 亀 』 の扁額
等の左側に縦に「米伝章言」と書かれ大きな落款が押されている。(内堀信嶺さんに読んでいただく)
「亀は万年、鶴は千年と云われているけれど、万年も千年もおめでたい年であることには変らない・等しいといってもいいものだ」という意味に解釈できる書です。
青華書の屏風
解体の時に見つかった屏風。だいぶ傷んでいたので、佐久市臼田の田島耕雲堂さんに持ち込み、表装しなおしてもらっていました。半年かかって先日ようやく出来上がって来ました。

大正年間の寅年、青華、という署名はなんとか読めたが、84文字の読み方や意味は浅学の私にはかいもくわかりません。青華という書家はどういう人物なのか。勉強したいと思います。
2面ずつ撮った拡大写真を3枚続けて載せます。書に堪能な方、もしお分かりならお教えいただけないでしょうか。



次は塩尻、高砂邸の長屋門の再生工事の続きの様子を書きたいと思います。
久しぶりの書き込みはとなりやにのこされている書、今日は屏風と扁額について書きます。扁額というのは横に細長い額のことをいいます。
山岡鐵舟書『亀鶴年寿等』
山岡鐵舟は天保7年(1836)江戸に生まれ、勝海舟、西郷隆盛等とともに江戸城明け渡しに尽力し、明治期になってからは静岡県権参議、茨城県知事・伊万里県知事・宮内大書記官らを歴任した人物である。
文武両道に長け、槍剣術を身につけ、無刀流と称し春風館を設立し、後には講武所剣術心得となった。書も学び、一楽斎と号した。
木曽へは2度訪れている。最初は明治7・8年頃、上松宿旧脇本陣・問屋の原鉄太郎さんに手紙を送り、木曽を訪れたことがわかっている。
2度目は、明治13年6月、明治天皇が木曽街道御通輩の際、先発官として宮ノ越宿を通っている。明治天皇は宮ノ越宿本陣でご休息をなさっている。
その際、鐵舟はあちこちに書を書き残している。宮ノ越徳音寺(木曽義仲菩提寺)には鐵舟揮毫の『潔之壺氷守』が残されている。
天皇が本陣でご休息の間、鐵舟は宿役人を勤めていた「となりや」で休息。この時に『亀鶴年寿等』を揮毫したものと思われる。
この3年後の明治16年8月23日、宮ノ越宿は宿の中央よりやや南側から出火、90戸の家が燃えてしまう大火事に見舞われた。問屋はじめ宿役人をしていた4軒の旅籠も燃えてしまった。ただ、本陣は
通りより奥まったところに建てられていたため難を逃れた。木曽11宿の中で江戸時代に建てられた本陣が現存するのは宮ノ越宿だけである。
この火事でとなりやも消失してしまった。しかし、家人は大事な位牌や鐵舟の書は運びだしたものと思われる。貞享元年(1684)年から後のすべての位牌が現存していることから推測される。
火事から3ヶ月後の11月末からとなりやの再建工事は始まったことがわかってきた。

山岡鐵舟揮毫の『 等 寿 年 鶴 亀 』 の扁額
等の左側に縦に「米伝章言」と書かれ大きな落款が押されている。(内堀信嶺さんに読んでいただく)
「亀は万年、鶴は千年と云われているけれど、万年も千年もおめでたい年であることには変らない・等しいといってもいいものだ」という意味に解釈できる書です。
青華書の屏風
解体の時に見つかった屏風。だいぶ傷んでいたので、佐久市臼田の田島耕雲堂さんに持ち込み、表装しなおしてもらっていました。半年かかって先日ようやく出来上がって来ました。

大正年間の寅年、青華、という署名はなんとか読めたが、84文字の読み方や意味は浅学の私にはかいもくわかりません。青華という書家はどういう人物なのか。勉強したいと思います。
2面ずつ撮った拡大写真を3枚続けて載せます。書に堪能な方、もしお分かりならお教えいただけないでしょうか。



次は塩尻、高砂邸の長屋門の再生工事の続きの様子を書きたいと思います。
Posted by 画廊となりや at 18:23│Comments(0)
│古民家再生